石川城太ホームページ 一橋大学経済学研究科 国際経済学
ホームページへ Go to English Homepage 一橋大学図書館のページへ

目次

研究

ゼミナール

担当講義

リンク

その他

Back to home

私の人生経験にみる国際貿易論の縮図
石川城太 一橋論叢1993年4月号掲載

エピソード(A)

イラスト小学校時代、朝食は月曜日から金曜日までは給食だったが、土曜日は弁当だった。私は土曜日の昼食のときが楽しみだった。なぜかといえば、給食では全ての人間が同じものを食べなくてはならないが、弁当では他人の弁当の一部と自分の弁当の一部を交換することによっていろいろなものを食べることができたからである。

私の弁当のパターンは、たいてい、梅干の入ったおにぎり二つとおかずだった。おかずはあまりたいしたことなかったが、おにぎりは結構おいしくて皆に人気があったので、私はもっぱらおにぎりの一つを誰かのおかずと交換した。しかし。おかずが増えてもおにぎり一つではどうしても腹が減ってしまう。そこで私は、おかずを減らしてもいいからおにぎりを三つにしてくれるよう、母に頼んだ。母は私が弁当の交換をしているなどとは予想だにしていなかったのだが、そのほうがおかずを何種類もの作る手間が省けてよいということで、おにぎりを三つに増やしてくれた。

おにぎりが二つ手元に残ることになると、私は新たなる交換を思いついた。私はおにぎりの二つのうち一つを梅干以外のものが入っているおにぎりと交換したのである。これにより、私はいろいろな種類のおにぎりを食べることができた。また、隣のクラスにいつものりまきを弁当にもってきている者がいた。私はおにぎりよりものりまきが好きだったのであるが、隣のクラスの人との交換はできなかった。当時、他の教室に入っていくことは暗黙のタブーだったのである。しかし、遠足のときだけは別である。クラスに関係なく皆入り乱れて弁当を食べるので、ここぞとばかりにおにぎりをのりまきと交換した。

以上のような経験は誰しもが持ったことと思う。実はこの中に、なぜ貿易を行うのか、つまり貿易による利益の本質をみることができるのである。貿易による利益は大きく分けて二つからなる。交換による利益と特化による利益である。交換による利益は消費に直接関係するものであり、特化による利益は生産に直接関係するものである。

交換による利益は直感的にも理解しやすいだろう。それぞれにとって希少価値が低い物を希少価値が高い者と交換することによって利益を得ることができる。エピソードの中ではおにぎりとおかずの交換がそれにあたる。現実には、たとえば、日本とサウジアラビアとの間での工業製品と原油の貿易がそれにあたる。特化による利益は、貿易開始が自給自足のときに比べて輸出する財の生産を増やして輸入する財の生産を減らす結果、所得水準が高まることによって得られる。エピソードの中では、おにぎりを増やしておかずを減らすということがこれに対応する。

このような貿易では、二つの国が似かよれば似かよるほど両国間の貿易量は少なくなると考えられるかもしれない。特に、両国が全ての面で全く同一であれば、貿易は行われないように思える。エピソードの中では昼食が給食によってまかなわれている場合がこれに対応する。しかし、現実には世界の貿易のかなりの部分は、多くの点で似かよった先進諸国相互間の水平貿易である。そのような貿易を説明する一つの理由も上記のエピソードは示唆している。それは、水平貿易が同一のカテゴリーに入る財の種類を増やすことにより、消費者の利益、すなわち、効用を高めるというものである。

その高め方には二通り考えられる。第一は、たとえば製品差別化が進んだ財を二単位消費する場合、同じものを二単位消費するよりも違ったものを一単位ずつ消費するほうが消費者の効用が高まるという考え方である。自動車を二台購入する場合、レクサスを二台購入するよりは、レクサスとベンツを一台ずつ購入するほうが効用が高いということになる。この場合には、もしドイツでも同様のことがあれば、日本とドイツの間で相互に貿易が行われ、貿易による利益が生じる。エピソードの中ではおにぎり一つを他のおにぎりと交換することがこれに対応する。

第二は、貿易を行うことによって同一のカテゴリーに入る財の種類が増えて消費者の好みにより近い財が入手可能となった結果、消費者の効用が高まるという考え方である。たとえば、貿易によって香水のバラエティーが増え、より自分の理想に近いものを手に入れることができるようになるというようなことが挙げられる。エピソードの中では遠足によって交換の機会が増え、おにぎりとのりまきを交換できるようになることがこれに対応する。

 弁当の交換は、ただ単に私の食い意地から生じたのであるが、こうしてみると、私はその頃から国際経済学者としての資質を十分秘めていたといえるかもしれない。 ▲top

エピソード(B)

イラスト少年時代、私は勉強が嫌いで野球ばかりやっていた。私はジャイアンツの高田選手のファンで第二の高田を目指していた。学校から帰るやいなやランドセルを放り出し、代わりにバットとグローブを持って出かけた。その当時は塾に通っている者はほとんどいなかったので(田舎だったせいもあり塾などはほとんどなかったと思う)、一緒に野球をやる者はたくさんいた。いや、野球をやらないと仲間外れになってしまったと言うほうが正しいだろう。

私は近所の友達と一緒に野球のチームを結成した。まだ小さいとはいえ、それぞれがライバル意識をもって、より良い打順、守備位置を取るべく競争していた。花形は打順で言えば一番とクリーン・アップ、守備でいえば投手と三遊間だった。しかし、運動神経の差や野球を始めた時期の差などによって、実力の差はどうしても出てくる。試合を行うとき、打順の方はあまり問題なく決まったが、問題は守備位置であった。ごたごたしたあげく、とにかくK君と私がバッテリーを組むことになった。しかし、どちらが投手でどちらが捕手かという問題が残った。結局、K君の方が速い球が投げられるということで、K君が投手になり、私が捕手になった。

このエピソードは一見、国際貿易論とは全く関係がなさそうであるが、実は大いに関係するのである。二つの国が貿易を行う場合、それぞれがどのような財を輸出、または輸入するべきかという問題がある。つまり、貿易パターンがどう決まれば、双方にとって望ましいかという問題である。国際貿易論ではこれに対する回答として比較優位という概念を用いる。この概念を二国(日本とアメリカ)、二財(農作物と工業製品)しか存在しない最も簡単なケースで述べると次のようになる。

もし、自給自足下で農作物に対する工業製品の相対価格がアメリカより日本において安いならば、日本はアメリカに比べて農作物よりも工業製品に比較優位をもち、アメリカは日本に比べて工業製品よりも農作物に比較優位をもつ。そして、それぞれの国が比較優位をもつ財に特化してその財を輸出することにより、貿易から利益をあげることができる。相対価格の大小が比較優位を決定するが、相対価格は生産技術、生産要素の賦損量、消費者の選好などの要因に依存して決まる。

比較優位とし言う概念を初めて唱えたリカードは、自給自足下での財の相対価格は生産技術、特に労働の生産性によって決められると考えた(労働価値説)。つまり、ある財の生産において、その労働の生産性が他の財のそれよりも高ければ高い程、その財の相対価格はより安くなる。先の日本とアメリカのケースにもどってリカードのモデルを考えてみよう。

まず、日本では工業製品一単位を生産するのに労働一単位、農作物一単位を生産するに労働三単位を必要とし、アメリカでは工業製品一単位を生産するのに労働二単位、農作物一単位を生産するのに労働二単位を必要するとしよう。すると、日本の農産物に対する工業製品の相対価格は三分の一であり、アメリカのそれは一となる。

日本はアメリカに比べて農産物よりも工業製品に比較優位を持ち、工業製品を輸出して農作物を輸入する。この例では工業製品の労働生産性は日本での方が高く、農産物の労働生産性はアメリカでの方が高いので、このような分業体制が利益を生むということは直感的であろう。

では、次のような例ではどうだろう。日本では工業製品一単位を生産するのに労働三単位、 農作物一単位を生産するのに労働九単位を必要とし、アメリカでは工業製品一単位を生産するのに労働二単位を必要するとしよう。すると、前の例と同じように日本の農産物に対する工業製品の相対価格は三分の一であり、アメリカのそれは一となる。この例でも日本はアメリカに比べて農産物よりも工業製品に比較優位をもち、工業製品を輸出して農作物を輸入する。

この例では、アメリカのほうが両財の生産にすぐれているので、一見するとアメリカは貿易をしないほうが良いように思われるが、実はそうではない。やはり、国際分業を行うことによって両国とも利益を上げることを示すことができる。つまり、ある国がもう一方の国と比べて両財の生産において生産性が優れていても、その国は、その優れている程度が相対的に小さいほうの財を輸入し、もう一方の財に特化してそれを輸出することによって、両国とも厚生を高めることができる。

この比較優位の理論をエピソードのホジション選びに応用することができる。K君は私よりも速い球を投げられるという理由だけで投手になったが、(K君と私がバッテリーを組むことを所与として)チームにとってもっと良い選び方がある。K君の投手としての能力と捕手としての能力を比べ、また私の投手としての能力と捕手としてのそれを比べる。もし、K君の投手としての能力が捕手としてのそれを上回り、私の捕手 としての能力が投手としてのそれを上回るのであれぱ、K君が投手、私が捕手となるべきである(逆の場合はその逆)。もし両者とも投手としての能力が捕手としてのそれを上回るのであれば、その上回っている程度が相対的に大きい方が投手となるべきである。

いま仮に、私がヤクルトの古田選手とバッテリーを組むとすれば、当然(?)私は古田選手よりも投手としても捕手としても劣るわけだが、古田選手は捕手としての能力が投手としてのそれよりも格段に優れているので、投手としても捕手としてもあまり能力に差のない私が投手になった方がよいということになる。 ▲top

工ピソード(C)

イラスト中学校に入ると、野球以外のスポーツをしてみたくなった。その頃は全日本男子バレーボールチームの全盛期で、ミーハーな私はすぐバレーボール部に入部した。中学校には中問試験と期末試験という制度がある。試験結果は学年で何番という形で知らされた。私は、バレーボールに熱中して、試験があろうとなかろうと勉強などしなかった。

その結果、一学期の期末試験では百八十人中百十番代だった。小学校の頃からあまり成績の良くなかった私は、まあこんなものだろうと思っていた。自慢ではないが小学校の六年問を通じて、五段階評価で五の数はたったの一つだった。だから、中学校の三年間で五が一つでも取れれば上出来だろうと思っていた。

一学期も終わり、夏休みに入った。その頃、私は中学生むきの雑誌を購読していた。その内容は主に、どうしたら効率的に勉強ができて成績が上がるか、どうしたら恋愛をうまくはぐくむことができるかなどの記事だった。普段は後者の記事ばかりを一生懸命に読んでいたが、夏休みの大量の宿題を楽にこなす方法はないかと思って勉強の記事も読んでみた。すると、一学期に出遅れた者は夏休みがその遅れを取り戻す絶好の機会だとして、夏休み中の勉強プランなるものが載っていた。毎日数時間、計画的に勉強するというようなものだった。

しかし私は、一学期の成績から自分は勉強に関しては標準以下であるから、標準以下の者はそれなりに標準以下の勉強だけをすればよいという自分勝手な論理を展開した。それでも一応、勉強してみようという気持ちに初めてなった。バレーボールの練習が毎日午後からだったので、午前中に宿題を中心に一時間半程勉強することにした。

二学期が始まり、中間試験がやってきた。問題がなんとなく易しく感じられたが、皆もどうせそう思っているにちがいないと思った。しばらくして順位が発表となったが、それを見て私は驚いてしまった。なんと一桁だったのである。百人以上のごぼう抜きに、私をはじめとして先生、親、友達までが仰天してしまった。

国際貿易論では経済成長の分析も行なう。たとえば、現在、アジアの一部の国々などはめざましい経済発展を遂げているが、他方で同じような規模の国でありながら経済発展が全く進まない国が数多くある。このような原因を探るのも一つの課題である。あるいは、貿易政策がその国や世界の経済成長にどのような影響を及ぽすのかも分析する。上記のエピソードは、前者と結び付けることができる。

経済成長論は六十年代に盛んであったが、その後下火となった。しかし、八十年代後半になってまた息を吹き返した。六十年代には経済成長の要因を主に物的資本の蓄積においた新古典派的分析が中心だった。この分析においては、経済成長が長期的には、外生的に与えられる技術進歩、あるいはやはり外生的に与えられる人口の成長によって決定されることになり、それらがぜ口であれば、経済成長もゼロに収束する。したがって、この分析は、長期の経済成長を内生的に説明することができない、あるいは現実には経済成長率が必ずしも収束していないという点をうまく説明できない。

このような欠点を克服するべく、八十年代後半から新しい成長理論、いわゆる内生的成長モデルが登場した。このモデルにおいては、物的資本の代わりに人的資本(ヒューマン・キャピタル)の蓄積を重要視する。特に、知識の蓄積が大きな役割を果たす。物的資本と人的資本の大きな相違は、前者がある場所で生産要素として使用されると他の場所では使用できないのに対し、後者は複数の場所で同時に生産要素として用いることができる点にある。人的資本は教育、研究開発(R&D)、ラーニング・バイ・ドゥーイングなどによって蓄積される。

ある国が順調な経済成長を遂げている一方で、他の国が全く成長できないというような状況を内生的成長モデルの中でたとえば次のように説明することが可能である。同一経済でも経済成長に関して二つの均衡が存在しうる。

一つは経済成長が滞るような「低均衡」であり、もう一つは経済が順調に成長する「高均衡」である。経済が「低均衡」から「高均奮」へ移行するためにはある一定の人的資本の量(たとえば、教育水準)が必要であり、それ以上の人的資本を蓄積した、あるいはできた国のみが経済成長を始める。すなわち、経済成長のためには人的資本の量に関してスレッシュホールド(threshhold)が存在する。

エピソードに戻れば、私にも勉強に関してこのようなスレッシュホールドが存在し、夏休みにこつこつ勉強したことでそれを越えたといえるかもしれない。しかし、中学時代に高成長を遂げた私も高校に入ると一転して低成長期に入り、いまだにそれを脱していない感がある。さしずめ中学校時代は六十年代の日本の高度成長期、高校以後は石油シヨヅク以後の低成長期といえよう。 ▲top

工ピソード(D)

イラスト私は一橋大学大学院の途中からカナダのウェスタン・オンタリオ大学の大学院に四年間留学した。一橋大学の大学院に入った当時から北米の大学院に留学したいと思っていたのである。理由は、近代経済学は北米が最もすすんでいること、ドクター・オブ・フィロソフィー(Ph.D.)を取得すること、英語を身につけること、日本以外の国で生活してみたかったことにあった。

ただ、留学にあたっては何といってもその費用が大問題だった。北米で暮らしても生活費自体は東京でのそれとあまり変わらないが、アルバイトができないし、なんといっても授業料がとても高い。私立大学だと文系ですら年間二百万円もかかるようなところがある。そこで私は留学のための奨学金にかたっぱしから応募した。どこも競争が激しく、ことごとく落ちたが、運良く、最後に選考があった村田海外留学奨学会というところが私に奨学金を出してくれることになった。

村田海外留学奨学会は毎年二、三名の奨学生を選考しているが、その審査はなかなか厳しい。書類審査、英語の筆記・口頭試験、そして面接試験にパスしなければならない。英語の口頭試験では、将来韓国の自動車産業が競争力をつけた時、日本の自動車産業はどのように対応するかと聞かれた。日本語でも返答に窮するような質問で冷や汗をかいたことを覚えている。

面接試験に残ったものは私も含めて十名ほどだった。面接試験の冒頭で、私は、この奨学金が得られなかったらどうするつもりかと聞かれ、もうだめかなと思った。しかし、この開き直りが功を奏したのかもしれない。私は奨学会から二年問の授業料と生活費をいただくことになった。この奨学金が無かったら現在の私はありえなかっただろう。

ある産業を外国との競争から保護する政策はどこの国でも行われている。たとえば、日本では米の輸入を制限している。それらの保護政策の根拠として、外部効果の存在、幼稚産業の保護、経済安全保障、産業問賃金格差などが挙げられる。上記のエピソードを幼稚産業の保護と結び付けることができる。

幼稚産業とは、その成長の初期の段階では国際競争に耐える力を持っていないが、ある程度以上の揚模で操業を続けることによって生産効率を上げることができ、最終的には国際競争力を身につけて自立することができる産業をさす。したがって、そのような産業を一時的に保護することにより短期的には経済厚生を下げても長期的には経済厚生を上げることができるという議論が成り立つ。この議論は古くはハミルトンやリストなどによってなされ、自由貿易論者も早くからその意義を認めてきた。

しかし、実際どのような産業を幼稚産業と見なして保護するかという基準については、さまざまな議論がなされてきた。ミルの基準は、一時的な保護の後、民問企業べースで採算が取れなければならないというものである。バステーブルの基準は、幼稚産業の保護育成による社会的な利益がその損失を上回らなければならないというものである。しかし、これらの基準に対して、もし資本市場、及び情報が完全であれば、政府の保護が必要ないという議論がある。ミル・バステーブルの基準が満たされているということは、民問企業は完全情報のもとで、現在損失を出してでも生産を続ければ将来その損失を上回る利益をあげることができることを知っているということになる。

したがって、初期の損失を借り入れによって賄うことができれば、すなわち、資本市場が完全ならぱ、保護がなくともそのような産業は自然に成長するということになる。そこでケンプは、現在の損失を犠牲に将来得ることができる経験、知識、技術の蓄積が他の後発企業に容易に利用されるような状況、すなわち、動学的外部経済を生み出す状況のもとで政府の保護が必要だと主張した。

このようなケースでは先発の企業が将来の利益を獲得することができず最終的に損失を被るため、だれもこの産業に参入しようとしなくなって長期的視点からは社会的損失となるからである。また、根岸は、生産効率の上昇によって価格の下落がある場合にはそれも社会的利益として見なすべきだと主張した。

上記のエビソードでは、留学することにより、研究者として自立して世界の学会で活躍できるようになり、社会のためにも貢献できるようになると考えるならば、私自身を幼稚産業のようにみなせる。奨学会の選考審査は幼稚産業としての資格を有しているかを調べるものにたとえることができるだろう。

ただ、このケースには問題がある。資本市場が完全であるという条件が成立していない。留学の費用を将来の所得を担保に貸してくれるような金融機関など無いだろう。この場合、最善の策はまず、資本市場を完全にするということである。もし、これができないのであれぱ、ミル=バステーブルの基準を満たしている産業に次善の策として、なんらかの政策、エピソードの場合では奨学金の支給が必要となる。

しかし、私の場合、何といっても最大の問題は、留学時に奨学会が私に払った費用以上の便益を奨学会、あるいは社会に返せるかどうかということである。もしかしたら、一生バステーブルの基準を満たせないのではないかと懸念している。 ▲top

工ピソード(E)

イラストウェスタン・オンタリオ大学には私をはじめとして多くの留学生がいた。特に、英連邦に属するカナダには香港からの学生が多い。キャンバス内で英話の次に聞こえてくる言葉は広東語だった。カナダは英語と仏語のバイリンガルの国というイメージを日本人は持っているが、基本的にオンタリオ州は英語圏なので、日常生活での仏語使用はほとんどない。トロントの人口の一割が中国系であることを思えば、仏語より中国語を話せるほうがずっと便利である。

大学院経済学研究科にも中国本土から来た人問も含めて中国人学生が多かった。これは、ウェスタン・オンタリオ大学が中国人の問でかなり知名度が高いことと、概して大学院に進学するような中国人は真面目に勉強して成績が良いことのためである。特に、同じ学年と一つ下の学年の中国人は大変優秀で、私も勉強の面でいろいろと助けてもらった。

さて、数年間の研究の後、博士論文のめどがたつと、皆就職をどうするかという問題を考え始める。特に、留学生にとってはこれは深刻な問題である。本国に帰るべきか、カナダに残るべきかの選択をまずしなけれぱならない。もし、カナダで就職するのであれぱビザの問題がある。カナダは移民を厳しく制限しており(もちろん日本ほどではないが)、たとえ外国人がカナダ国内で学位を取ったとしても彼らの就職はなかなか困難である。

私自身は将来的には日本に帰ることを考えていたが、北米の大学にしぱらく籍を置きたかった。理由は、研究環境、及び生活環境が北米の方が目本よりも良いことにあった。就職戦線は予想したとおり、かなり厳しかった。ビザの問題もさることながら、言葉の問題がかなり足を引っ張った。とにかく、北米の面接では有ること無いことかまわずしゃべりまくって自分を売り込まなくてはならない。私にはこの点が最大のネックとなった。それでも何とかウェスタン・オンタリオ大学からポスト・ドクトラル・フェローとカナダのW大学から専任講師という就職口をとりつけた。

留学生の友達たちも就職に関してはかなり悩んでいた。特に、中国本土から来た友達のほとんどは中国に帰ってもカナダで学んだことを生かすことができないし、生活水準があまりにも違いすぎるということでカナダに残ることを希望していた。そうこうしているうちに中国では天安門事件が起こり、カナダ政府は中国本土から来た中国人のほぼ全員に移民としての資格を与えることにした。移民であればもうビザの心配もないし、就職に関して差別されることもない。このようにして私の中国人友達のほとんどはカナダに職を得た。私は、優秀な中国人が本国に帰らないことは中国にとって大きな損失だと感じずにはいられなかった。

国際貿易論では、まず、労働や資本などの生産要素の国際問移動が無いと仮定して財の貿易の分析をすすめる。そして、生産要素の不移動性の仮定は、ある条件のもとでは財の自由貿易が財価格の均等化を通じて生産要素価格の国際的な均等化をも達成するという要 素価格均等化定理によって部分的に正当化される。すなわち、財の自由貿易が行なわれれぱ、要素価格も国際的に等しくなるため、生産要素を国際的に移動させるインセンティブが消えるのである。

しかし、現実には、資本のみならず、労働の国際的な移動も随分観察され、国際貿易論でも生産要素移動の分析はかなりすすんでいる。一般に、生産要素はその報酬率が低い所から高い所へ移動するとする分析が主流である。資本の移動についてはこのことが当てはまるが、労働の移動については必ずしもそうではない。報酬率は需要と供給によって決まるので、ある生産要素が他の要素に比べて相対的に不足している国ではその報酬率が高くなる。

したがって、発展途上国では、先進国と比較して熟練労働者の賃金率が未熟練労働者のそれよりも高くなると考えられる。しかし、実際には熟練労働者、あるいは優秀な人材が発展途上国から先進国へ流出する現象、すなわち、頭脳流出(ブレイン・ドレイン)問題が生じている。エピソードにおける中国人のケースは典型的なブレイン・ドレインの例 と言えよう。最近の理論ではこの現象に対して二つの回答がある。

一つは、労働移動は本人自身が他の国に移動するわけであるから、行き先の国の実質賃金の他に生活水準などが重要であるとする考えである。この場合、生活水準は国民一人当りのGNPや公共投資額などではかられる。

このケースは、私が北米の方が生活環境が良いと思ったケースや中国人が中国に帰国すると生活水準が下がると言ったケースに対応する。もう一つは、特に熟練労働者の場合に当てはまることだが、集まって仕事をすることによって外部経済が働き、各々が一人で働くよりもずっと生産性が高まるというものである。研究職などはこの典型的な例である。このケースは、私が研究環境は北米の方がよいと思ったケースに対応する。ただし、私が実際に北米に残ることが真の意味での「頭脳流出」になったかは疑問である。 ▲top

工ピソード(F)

イラスト幸か不幸か現在私は独身である。親、果ては恩師までが早く結婚するようにと言うが、こればかりは相手が要ることなのでそう簡単にはいかない。結婚したらこれから先、数十年問一緒に暮らさなければならないのだから慎重に決めようなどと思っているうちに今日に至っている。

私が独身で「幸」と思うことは、とにかく気楽だということである。自分の面倒だけ見ていればよい。家族に気兼ね無く自由な行動を取れる。結婚したら女房が言うことにも耳を貸さなければならないだろう。もしかしたら尻に敷かれることになり、自由な行動を取れなくなるかもしれない。金だって自分の稼いだものを全て自分で使える。結婚している友人が自分の毎月のこずかいはン万円だと言うのを聞いた時、私は密かな優越感を感じた。

反対に、「不幸」と思うことは全て何事も自分一人でしなければならないということである。二人で暮らせぱ分業体制を取ることができる。多くのことを効率良く行なうことができるだろう。食事でも、一人分作るのも二人分作るのもあまり手間は変わらないし、一人当りのコストも安くつく。何か買い物をする時でも、二人の方が情報量も多いし、一人よりも二人で値切れぱその効果はより大きくなるだろう。

結婚は経済統合と似ている側面を持つ。経済統合にはいくつかのタイプがある。それらの主なものは、自由貿易地域、関税同盟、共通市場、経済共同体であり、後のもの程統合度が高い。自由貿易地域は加盟国間では関税を撤廃するが、域外国からの輸入に対してはそれぞれの加盟国が独自の関税を課すというものである。自由貿易地域として最近注目されているのは北米自由貿易協定(NATA)である。

これは、まずアメリカ合衆国とカナダの間で八九年から十年間でほとんどの関税を廃止するという合意から始まり、最近になってメキシコが加わった。今後、加盟国が中南米の国やアジア、オセアニアの国まで広がる可能性もある。関税同盟は域内の関税を廃止すると同時に域外国からの輸入に対して共通の関税を設定するというものである。共同市場は関税同盟にさらに域内での生産要素の移動に対する障壁も撤廃するというものである。東南アジア諸国連合(ASEAN)は共同市場の創設を目指して七六年に結成された。経済共同体はさらに経済政策までも統合しようとするものである。

欧州共同体(EC)は八五年から進めてきた市場統合を九二年末までにひとまず完成した。欧州共同体はさらにマーストリヒト条約(欧州連合条約)に基づいて通貨、及び政治統合を目指している。

経済統合を行なう誘因は、一つには経済の規模を大きくすることにより規模の経済を実玩するということにある。エピソードの中では結婚により分業体制を確立でき、コストを削減できるということがこれにあたる。また、他国との交渉力を増すために統合を行なうこともある。たとえば、北米自由貿易圏の形成は明らかにEC経済圏の広がりを意識したものである。エピソードの中では買い物において一人よりも二人の方が情報も増えるし、値切りやすいということがこれに対応するだろう。

しかし、他方において経済統合に危惧の声が無いわけではない。カナダはアメリカ合衆国と自由貿易協定を結ぶにあたり、アメリカ合衆国の経済的・政治的支配力が増してアメリカ合衆国の五十一番目の州と化してしまうことを危惧した。つまり、カナダはアメリカ合衆国の尻に敷かれてしまうことを恐れた。

欧州共同体ではドイツ、フランス、イギリスなど裕福な国がスペイン、ポルトガルなどの経済的に後発の国への経済的支援をするわけだが、その配分に関しての合意をなかなか達成できないという問題がある。さらに、将来通貨統合が達成されると、各国の中央銀行の独立性が失われてしまうという危惧もある。つまり、自分で稼いだ金を全て自分で管理する権利を失うことに対する低抗感である。

しかし、経済統合は今や世界経済の趨勢のようである。私も世界の趨勢に乗り遅れないよう、早く結婚したほうが良いのかもしれない。ただ、ソ連が歩んだような分裂だけは、結婚後に是非とも避けたいと思っている。完

石川城太(一橋大学経済学研究科) 一橋論叢第109巻第4号(1993年4月号)「学問への招待特集」55-69ページに掲載「私の人生経験にみる国際貿易論の縮図」

Back to home▲top