道元「有時」を読む(html,2006年8月28日開始,10月11日終了)

 東海地方出身である父方も,母方も,曹洞宗である.したがって,私も曹洞宗ということになる.私の少年期,青年期を過ごした関西で曹洞宗はめずらしいが,東海地方には曹洞宗の禅寺が多い.大久保道舟氏の『修訂・増補 道元禅師伝の研究』(1966年,筑摩書房)には,「尾張・三河地方の寺院には,禅師に関係した遺物や遺跡のあることを伝えているが,これ等は恐らく北越・鎌倉間往復途上における出来事を示すものであろう」とある.そのようなところが,道元との関わりのきっかけということになろうか.

 2005年の前半,カナダに滞在しているときに,道元の『正法眼蔵』をむさぼるように読んだ.といって,どんどん読めるわけでもなく,

   森本和夫『正法眼蔵読解 1』(2003年,筑摩書房)

に含まれている8巻分が精一杯だった.

   寺田透・水野弥穂子校注『正法眼蔵 上』(1970年,岩波書店)

を常に座右に置いた.

 不思議な魅力のある文章だった.中毒になるようなところがある.漢文の読み下し方があまりにラディカルなのである.とにかく激しすぎる.
 たとえば,「仏性」の巻には,「一切の衆生は悉く仏性を有す」とあるところを,道元にかかると,「悉有の言は,衆生也,群有也.すなわち悉有の仏性なり,悉有の一悉を衆生といふ」となる.「時節若し至れば」とあるところを,「時節若至といふは,すでに時節いたれり,なにの疑著すべきところかあらんとなり」となる.
 また,「即心是仏」の巻には,「あるいは即心是仏を参究し,心即仏是を参究し,仏即是心を参究し,即心仏是を参究し,是仏心即を参究す.かくのごとくの参究まさしく即心是仏,これを挙して即心是仏に正伝するなり」となる.

 しかし,寺田透氏によれば,道元は意味を徹底的に破壊しているわけでは必ずしもないという.彼の「正法眼蔵透脱以後」(1961年,『道元の言語宇宙』,1974年,岩波書店に所収)によると,普通は「もし諸相は相に非ずと見るときは,すなわち如来を見るなり」と読み下される「若見諸相非相,則見如来」という金剛般若経の文言を,道元は「見仏」において「諸相を見取し,非相を見取する,即見如来なり」と読み下しているが,これはサンスクリットの原義通りだそうである.意味の破壊のように見える読みが,真の意味を発見するというのも摩訶不思議である.ただ,寺田氏は,サンスクリットを解した宋僧から教示してもらった可能性も示唆している.
 この点に関して,石井恭二氏は,『図書新聞』(1996年9月21日号)にある松岡正剛氏との対談(『花には香り 本には毒を』,2002年,現代思潮新社に所収)で当時の日本の仏教界にサンスクリットやパーリで仏典を理解する知的土壌があったかもしれないという興味深い指摘をしている.この辺のことが厳密に検証されると,本当に面白いのだろう.道元1人の天才ということではなくて,道元の天才を生み出す,あるいは,受け入れる知的土壌が当時の日本の仏教界にあったかもしれないことは,とても魅力的な仮説である.
 末木文美士士も『日本仏教史』(後掲書)の終章にある「漢文解釈をめぐる思想展開」で上の問題に触れている.末木氏は道元の語学能力にやや懐疑的である.高崎直道氏の指摘を引用しながら,有名な「身心脱落」も,如浄の発した「深塵」を発音が類似する「心身」と聞き間違え,それが「身心」となった可能性を指摘している.それにもかかわらず,道元の読みは,漢文を和文という異なる言語の文脈に意図的に投げ入れることによって,意味の本質をむき出しにすることに成功しているという.

 いずれにしても,道元のこうした調子に最初は戸惑い,しばらくすると癖になってしまう.そうやって,多くの人たちが『正法眼蔵』にのめり込んでいったのだと思う.
 だから,『正法眼蔵』全巻(通常は,75巻本に12巻本を加えたもの)を読み解いていく作業は,たぶん誰のものであっても,最初の数巻を過ぎると,まったく分からなくなってしまう.作業をする方が道元に慣れてしまってというか,しびれてしまって,『正法眼蔵』という対象と一体化してしまっている.
 ここで読もうと思っている「有時」も,75巻本で20巻目である.「有時」の部分をいきなり読もうとすると,誰の読解や翻訳を読んでもさっぱり分からない.森本氏のものは『正法眼蔵読解 3』に納められているが,すでに哲学者が書く言葉でないように思えてしまう.定評があるといわれている石井恭二氏の現代文訳(『道元 現代文訳 正法眼蔵 2』,2004年,河出文庫)も日本語としてずいぶんと分かりにくい.
 これらの著者の仕事を難じているのでは決してなくて(反対に,寺田氏のもの,森本氏のもの,石井氏のものから数限りないことを学ばせてもらった),第1巻の「現成公案」から著者とともに道元の文章とつきあってきた読者からすれば,著者の読みに違和感などないはずである.書き手も,読み手も,道元の文章の魅力に圧倒されてしまうのであろう.

 そんな思いを道元の文章に感じているときに出会ったのが,

   田中晃『正法眼蔵の哲学』(1982年,法蔵館)

であった.
 目から鱗が落ちる思いであった.哲学者が使うロジックの言葉で「有時」が読み解かれていた.たぶん,田中氏の著作自体が,「山水経」,「有時」,「渓声山色」,「現成公案」,「一顆明珠」,「仏性」の6巻に絞っていたという事情は無視できないであろう.一冊の本としても「有時」が2章目なので,読み手もまだまだ道元に慣れきっていない.
 今回は,田中氏の著作を導き手に「有時」を読んでいきたい.
 「有時」の巻は,1240年に「書かれた」ものである.他の巻と異なって「示衆」ではない.その3年後に,道元一行は観音導利興聖宝林寺(京都深草)を立ち退き,越前に向かう.

 道元に接近するのに大変に役に立ったのは,上に掲げたものの他に,頼住光子『道元:自己・時間・世界はどのように成立するのか』(2005年,NHK出版)と松本章男『道元の和歌』(2005年,中公新書)であった.どちらも小品ながら,分かりやすい言葉がすんなりと頭に入ってきた.頼住氏の「読書案内」で田中氏の著作も知った.道元の和歌は,彼の散文と違って,平易で分かりやすい.ただ,道元の和歌が気になったのは,『正法眼蔵』自体が韻文であって,散文でないという思いが強く,そうした哲学詩といってもよい作品を書き上げる人の詩を読んでみたかったのである.

 道元の伝記的な背景については,上掲の大久保氏の著作の他に竹内道雄『新稿版 道元』(2003年,吉川弘文館)を参考にした.
 1196年,道元の父とされる村上源氏,源通親(道元の父については諸説ある)は,藤原定家の主家である九条兼実を失脚させた.1200年,道元が生まれる.1220年の承久の乱の後,村上源氏は幕府と協調路線をとった摂関家藤原氏に再び取って代わられる.
 道元は,1223年に入宋し,1227年帰国.1233年,京都深草に観音導利興聖宝林寺を開く.1243年,越前に向かい,吉峰寺に入る.1244年,大仏寺(後の永平寺)に移る.1247年,鎌倉に下向し,北条時頼に授戒する.1253年,懐弉に永平寺を委ね,京都で示寂する.

 仏教的な背景を理解するには,末木文美士『日本仏教史』(1992年,新潮文庫)が大変に役に立った.『正法眼蔵』,特に十二巻本には,本覚思想に対する批判という側面が指摘されてきた.十二巻本に関するものを何冊か読もうとしたが挫折してしまった.

 なぜ,「有時」に関心を抱いたかということであるが,表向きの言葉でいえば,道元の時間論や空間論に関心があったということになる.しかし,本音はそうでないように思う.まずは,「松も時なり,竹も時なり」に度肝を抜かれたこと.時と物と場が一体となった世界の記述に魅了されていった.道元によって衆に示された巻ではなく,道元によって書かれた巻であること.「現成公案」など,書いたものは少ない.それと,読んでいてすぐに感じることであるが,道元の「時」は,われわれが念頭にしている「時間」とずれがあって,和歌の百首歌や五十首歌の季節の流れと重なる部分を強く感じたこと.そのことは,「経歴」という考え方に表れている.
 「有時」は,『正法眼蔵』の中でも惹きつける力のある巻である.

 『正法眼蔵』を明快な言葉で淡々と読んでいく田中晃氏のことが気になってしまった.上掲書には,1906年山口県防府市生まれ,1930年に九州帝国大学哲学科を卒業後,九州帝国大学,山口大学,山口女子大学で教鞭を執ってきた,としかない.中央の書店からの出版は少ない.古本屋から『歌と哲学』(1947年,南風書房)という小冊を購入した.そこに収められている「西田哲学随感」というエッセーを読んでなるほどと思ってしまった.難解で難渋で悪文としか思えない西田博士の文章について,万感の愛情を込めて(少なくとも私にはそう思える),次のように語っている.長くなるが引用する.申し訳ないが,新仮名遣いに換えている.

 この創造的世界を説くところに西田博士の形而上学がある.人間から世界を見るのではなく,世界から人間を見るのである.西田哲学を理解しようとするものも,この立脚点を忘れてはならない.単に人間の知識や意志から出発したのでは,人間そのものの根拠は明らかにされない.しかし,世界から人間を見るといっても,それが一方的であってはならない.単に客観から主観を見るということであってはならない.人間は創造的世界から作られても,その世界の創造的要素なのである.作られたものであっても,また作るものである.人間が真に作られたものであるとの自覚に徹すれば徹するほど,即ち創造的世界によって支えられれば支えられるほど,人間は愈々作るものとなる.逆にいえば人間が作れば作るほど,それは作られたことの本性を発揮するのである.世界からの方向が客観的とすれば,人間からの立場は主観的である.しれゆえに客観的となればなるほど主観的であり,主観的となればなるほど客観的である.主観即客観,客観即主観ということが,ここに立言される.世界は一般者であり,世界に於いてあるものは個別である.前者は一であり,後者は多である.しかし一の根底によって多があり,多が成立していることが一の真相である.故にここにも一則多,多即一ということが云われる.かようにして作られたものから作るものへと,不断に流動するのが創造的世界の真相である.そうしてこの過程が即ち歴史に外ならない.創造的世界は単に自然的なのではなく,歴史的である.この複雑多様なる世界を支えている一般者というものは,何等かの一定のものではあり得ない.ギリシャの哲学者の考えたような,水とか空気とかいうものでは,この歴史的な変化の世界を説明することができない.おしなべて何等かの「有」を以てしては,歴史的な創造の世界の根底に置くことはできない.それは多を一に吸収して了うからである.そこで一般者は「有」ならぬ「無」と考えられる.けれども「無」というのは一般者がないということではない.一般者が無いのであるならば形而上学的根底は失われる.一般者はある.ただ,それは此の現実の世界がこのようにあるということ,そこに無限の多を成立せしめていること,そのことをあらしめている一般者なのである.現実の世界がかくあるものとするのは多としての見方であり,かくあらしめているとするのは一としての見方である.前者は個別としての見方であり,後者は一般者としての見方である.そうして「あらしめるもの」があくまで「あるもの」との相即に於いて立てるから,「あるもの」を外して何処かに一定の一般者があるのではない.故に無である,しかしそれはただ無いというのではなく,たしかに有るのである,ただ何等かの有として規定されないのである.故にかかる一般者は有無の相対を超えたものとして「絶対無」である.何故に「絶対無」といって「絶対有」といわないか.既に「絶対」であれば,有というも無というも差異はないであろうが,これを絶対有とせずして絶対無とするのは,おそらくは西田博士の仏教的素養から来るのではあるまいか.

 上の文章のしばらく後に「哲学が芸術的だというのも,それである.西田博士が,もし「絶対無」に代わるに「絶対有」を立てられたならば,恐らく西田哲学はもっとアポロン的な明快性を得たと共に,そのディオエュソス的律動の迫力を失ったかもしれない.かくて西田哲学の難解と魅力とは,ともに「絶対無」に胚胎しているのであろう」と続いている.
 この文章が書かれたのが終戦直前だとして,衒学的であることが知的防御である度合いも今よりもはるかに強かったであろうに,また,当時の多くの哲学徒にとって西田博士は依然として神にも近かったであろうに,文章の淡々とした明快さにただただ驚いてしまう.

 こうした文章を読むにつけ,西田博士の難解さに立ち向かう田中博士の姿は,道元禅師の難解さに立ち向かう田中博士に完全に重なってしまう.そうしたたゆみなき知的営為によって,西田哲学の核心を,道元禅のコアを分かりやすい言葉で探り当てていく.
 ここから先は,哲学や宗教の門外漢の根拠のない当て推量になってしまうが,そうした田中博士の接近法は,もしかすると,西田哲学の信奉者からも,『正法眼蔵』の信奉者からも強く忌避されたのかもしれない.田中博士のような知的営為は,難解で難渋で,時には非論理的であるがゆえに芸術的魅力であった西田哲学や『正法眼蔵』を受容していた(文学的)土壌そのものを突き崩しかねないからである.しかし,西田博士や道元禅師からすれば,田中博士のような読み手こそ待ち望んでいたのだと思えてならない.

 田中氏は,1982年の『正法眼蔵の哲学』を出版した後,1989年に『道元禅の世界』(山喜房佛書林),1993年に『道元禅の世界・第2巻』(山喜房佛書林),1995年に『道元禅の実相・正法眼蔵釈義』(晃洋書房)を上梓している.90歳間近での著述にただただ脱帽である.
 『道元禅の実相』には,最後の章で七十五巻本にも,十二巻本にも含まれていない「生死」を読んでいる.田中氏は,「仏のいへになげいれる」他力本願の至境で道元と親鸞が邂逅したという.それは,著者が最終的に行き着いた至境でもあるのであろう.あとがきで「道元と親鸞,日本の誇るこの両仏祖の敬虔なる絶対他力の真理こそが,根本の指針となりうるであろう.人間は創造的世界の創造的要素であるという西田哲学の実現されるのはいつの日であろうか」という文章で本書を閉じている.
 道元禅に関する田中氏の著書は,比較的入手しやすい書籍にほとんど引用されていない.あまりに明晰であったという事情からか,浄土門的なものへも解釈の扉を開いたからか,正法眼蔵の専門家の間で無視されてきたのであろう.瀬住氏の著書で田中氏の著書を知った偶然にとても感謝したい.