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複素関数論を学ぶにあたって

川平 友規


自転車に乗っている人は多いと思います. みなさんは, 自転車という道具の「しくみ」を理解していますか? それを自転車というものを知らない人に, 説明できますか?

自転車の理解といった場合, いくつかのレベルがあるように思います.

 1.  しくみなどは考えたことはないが, とりあえず運転はできる.
 2.  運転の仕方だけなら, 人に教えることができる.
 3.  部品(たとえばハンドル, ペダル, チェーン)の名称をまじえながら, 自転車が走る「しくみ」を説明できる.
 4.  それぞれの部品の構造とその材料, 加工方法を説明できる.
 5.  それぞれの部品に使われている材料の 物理的・化学的特性について科学的説明ができる.

さて, これから学ぶ複素関数論を自転車(工)学にたとえると, われわれの目標は3から4のあたりに相当します. 自転車の開発者であれば5のような知識も 要求されるでしょうが, どちらかといえばユーザーサイドの専門家, 街の自転車屋, といった感じでしょうか.

思えば自転車というものは, 不思議な乗り物です. 走行中の接地部分はふたつのタイヤのきわめて小さな部分だけで, うまくバランスを取りながら効率的に前に進むことができる. この「バランスを取る」という操作は一見難しそうなのですが, 少し練習して慣れてしまうと, 拍子抜けするほど簡単にできてしまう. そこでは, 自転車の物理的特性と, 人間の平均的な身体能力が, 面白いほどに噛み合っているのでしょう.

複素関数論はしばしば, 「数学のなかでも非常に美しい」と言われます. 「美しい」というのは, 「不思議とうまくいく」といった感覚的なもので, たとえばダイヤモンドの輝きのように, これといった実体に由来するものではありません. 自転車という乗りものの不思議さをもって, 「自転車は美しい」と主張する人がいたとしても, 他の人が同意するかどうか. まあ, 半々といったところでしょう.

一方で, わたしたちは複素関数論のあらゆる定理に, 完全に論理的な(すなわち普遍的であり, 客観的な) 証明をつけることができます. それは自転車の専門家が, 自転車のしくみを5のレベルまで 説明できることに似ている. それでも, ふたつの車輪だけで走る自転車はどこか不思議なものです.

複素関数の数学的な特性と人間の知的能力は, 面白いほどに噛み合っているのです. それは理解するものではありませんが, きっと, 誰にでも味わうことができるものなのではないかと思います. わたしたちが初めて補助輪なしで自転車に乗った, あのときの感覚のように.


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